昭和四十九年十一月二十六日 朝の御理解


御神訓 「真の道に入れは第一に心の疑いの雲を払えよ」


 神様を信ずると言うことは、中々やはり難しい事です。目に見えない、声になって聞こえて来ない。いうならば在るやら無いやらわからん。但し、あることはある。それは丁度空気の様なもの。目にも見えないけれども、言葉もないけれどもあることだけはある。
 そこで神様も在るならそういう様なものだと、空気が見えないから無いという訳にはいけん。私達の心もそうである。腹が立ったり悲しかったり、嬉しかったり、やはりそれは、心があるから嬉しゅう感じたり、悲しゅう感じたりするのです。
 だから心も同じで、例えば体を解剖して見たところで、これが心だと言うことはわからないけれども、心があることだけは間違いがない。
 あるやらないやらわからない心で、あるやらないやらわからない神様を拝む。そして、そこに神様在りと言うことを、わからしてもらい、又その神様の働きをわからしてもらう。そこから段々に疑うにも余地のない、本当に絶対信というか、そういう事が生まれてくる。絶対信の世界に住むということが人間はこの世での一番の幸せです。
 神様を絶対信ずるということ、又、神様の働きを信ずるという、その信じれれる様になるところに、人間のこの世での幸せがあるのです。
 疑うて掛かればおかげは無いと。半信半疑ではおかげも半分と。信じてかかれば全部がおかげになるとですから、日々私共が第一に真の道に入れば、真の道に入るということがまず第一である。そこで真の道にあるものは、どういうことにならなければならないかと。私は、まあいろいろ思うのですけれども。
 甘木の初代の安武先生が、ある時の元日のお祭りを、元旦祭を仕えられた後の御説教の中で、今までは不平不足を言うことを、修行と思うて、不平不足を言わなかった。今年からは、不平不足を思うことを、思うまいと思うという意味のことを仰ったそうです。
 不平不足を言わんというだけでも大変なことですね、大体は。けれども不平不足を思わないということは、いよいよもって私は、大変なことだろうと思うておりました。ところが最近私は、思わせて頂くことはね、いわゆる神様の働きを段々わからせて頂き、その働きを信じさせて頂く様になったらです、不平不足を言うだんじゃない、思うだんじゃないことがわかって参りました。
 そして、今まで不平を言うておったり思うておったりすることに対して、むしろお礼を申し上げねばならないことが段々わかって来た。
 なるほど、甘木の初代の先生が、あれだけの大徳を受けられたお方がです。不平不足を言わんというけいこをなさっている内にです、今度は、思わんで済む、いうならばおかげを段々頂かれる。思わんで済むおかげを自分の心の中に、頂いておいでられたのも、やっぱり私が今思うておる様なところがわかられた。またわかっておられたからだという風に思います。
 なぜ不平不足を言わんで済むか、どうして思わんで済むかと。それを一切神様のおかげ神様の働きとわかればわかるほど、それが痛いことであっても痒いことであっても、神様の働きであることが、わかって来ると不平不足を言う段じゃない、もちろん思う段でもないことがわかって来る。
 そこでです「第一に疑いの雲を払えよ」とこうおっしゃって下さってあるが、その疑いの雲を払うためにはまず、神様の働きをわからせてもらうということです。けれども、それをまたわからせて頂くためにです、けいことして一つ不平不足はもう絶対言うまいという修行せねばいかんです。まず。不思議に不平不足を言わんですむ修行に本気で取り組んで下さるとです、やはり神様が喜んで下さるとでしょうね。
 体験が生まれて来る。不平不足言わんで済む。有り難さもわかってくる。段々神様がはっきりわかってくる。そうして行く内にです、私が、皆さんにいつも申します様にすべての事柄は、神様の御働きだから事柄ではない。御事柄として受けよというでしょう。その御事柄がわかってくる様になると不平不足はもう思う段じゃないです。御礼申し上げんならん事ばっかりです。そういうことになるんですよ。だからこれはそこんところからわかって来ると不平不足を思わんということも、さほどむつかしい事じゃないと。
 不平不足に思わん、言わんで済む世界に住んだら、どんな素晴らしい事だろうかと、皆さんいっぺん思うて見てごらんなさい。そりゃ素晴らしい事です。いや素晴らしいおかげが伴うてくるです。それをこの頃少し私がわからせて頂いておると、もう不平不足だらだら、如何に神様がわかっとらんかということがわかります。
 もう言うちゃならんと思うて辛抱しとるけれども、心は不平不足で一杯に、だから何かの機会にちょっとぶつかると爆発してしまう。これでは常日頃信心稽古さして頂いておる値打ちがない。疑いの雲を払わせて頂くためにです、まずね、一つ本気で不平不足をまず言うまいという修行に取り組ませて頂くと、それこそ有り難いおかげが頂かれます。
 有り難いおかげが頂かれるからです、いよいよ成るほど、言わんでよかった。いや本当は、思うてもならないことが、はっきりわかってきます。そして神様のいうならば、御働き、神様が、ござるやらござらんやらわからん様な中からです、神様が在るとわかり、神様の働きがわかり、しかもその働きがです、もう氏子可愛いという、願い、思いの中から起きてくることばっかりですから、御の字をつけて頂かんならん。
 不平不足を思いよらんことは、思う段じゃない反対にお礼を申し上げねばならない。一切に感謝の心が現せる生活、それが本当の信心がわかって行きよるのであり、神様が、わかって行くものの信心姿勢だと、私は思うです。
 はあとても不平不足を言わんだけでも難しいとに、不平不足を思わんてんなんてんそれはもう、大変な事だろうと、まあ、それに取り組まない前は、私も思うとったです。ところが本気で取り組んでみるとです、わかってくるです。神様が、はっきり、働きがわかってくる。
 昨日は、二十五日の研修会でしたから、いろいろ研修、皆さんの話を聞かせて頂いたんですけど、飯塚の安藤さんが(小竹・安藤寿子)こういう発表しとりました。もう半年も前のことでございましょうけれども、自分の大変心易い方が、癌で入院しとられます。
 それでもう医者は助からんというのを、もう一生懸命に、お取次を願われておかげを頂かれてそれで、御神米を頂いてもらって、ところがお医者さんがたまがるごたるおかげ頂いて退院された。
 それで合楽に是非一遍お礼参りをと言われたところが、えらいこう渋られる。そしてこうおかげじゃなかごたる。行くたんびんに露骨にそれが見えてきた。だからああいう性格の方ですから、ちっとはモヤモヤして来なさったわけですね。
 これほどのおかげを頂いておるのに、いうなら、助からんところを助けて頂いてです。それでいて神様のおかげでない様な思い方を説明すればするほど、反発して来なさるという感じ。ところがもう何ケ月経ちましょうか、退院されてもう一ケ月以上になりましょうか、段々そのわからせて頂いたことはです、神様の働きの偉大さがわかって来た。
 本当に神様は、ああいう医者が見放す様な病人でも助けて下さる働き、力を、いうならもう目の当たりに見られたわけです。だからこれだけでも自分がおかげ頂いたとこう思うた。そしてこの人がお礼参りをしないのだから。けれどもです、これは私がお礼申し上げるべきだということがわかったと。この人を通して、こういう難病でも助かることが出来るという自信と、いうなら確信の様なものがです、その人を通して頂けた。
 だからこれは自分が、お礼を申し上げることだ。というて昨日は、そのことのお礼お届けを私はさせて頂いたという発表がありました。
 昨日のお話の中にも申しました。昨日の晩遅うに、福岡から電話が掛かって来たという話をいたしましたですね。昨日遅うにもう九時位だったでしょうか、もう此処お広前を閉めてからです。日吉さんの車に便乗して見えられた。
 私は昨日、ここ下がってからそこの信者控室で、暫くお話をさしてもらったり聞かせてもらったんですけれど、もうほんなこて一家中でガス心中するちゅうてから日吉さんに言われた様ですけれども、もうほんとにこげんときが一家中ガス心中する様な時だろうと思う様に難儀な問題です。それはもう本当にさもあろうと、もう一生がです、もう一つも希望もなからなければ、光もない訳です。
 沢山な借金を持っとられる訳です。とっても良い方の様です。おとなしい方の様でした。それを昨日聞いてから、神様の働きの素晴らしいことを感じて、神様が助けにゃおかんという働きがはじまっておるなと思うて、それこそ確信をもってお取次さして頂いたんですけれども。第一、七年前に、日吉さんと同じ職場で働いとった先輩の方だそうです。
 それがね、どうにもこうにも出来ないごとなったから、いろいろ思い煩いしておる時にです。勤めに出ておられるけれどもう仕事が手につかんのです。ときに或る時に夜勤の時に、日吉さんの休まれる部屋に入って行ったら、日吉さんが一生懸命そのベットの上で、御祈念をしておる姿にふれて、何か尊いものに触れた様な気がしたことを七年後に思いだした訳です。
 ほんにあの人が、そのとき聞いた。そしたらこうして合楽の金光様にお参りしておる。金光様の信心しとることを聞かせて頂いてです、そのことを思い出させて頂いて、日吉さんのところに電話をかける気になつた。
 ところが日吉さんが丁度留守だった。それで合楽の教会ということだけは聞いとったから、電話を調べて電話をかけなさったのであった。
 日吉さんも、自分の兄弟の人のある問題をです、があったので、七年前のその友達の人を思い出してですね、ほんにあの人はあんな事に詳しかったから、あの人に聞いて見ろうというて、七年振りに電話をかけた。それが一致した訳ですね。
 自分が掛けたときには居なかったけれども、だから日吉さんは掛かって来たことも何も知らんけれども、或ることを尋ねたいと思うて電話を掛けたら、今あんたのところに電話をかけてこうこうじゃったというて言われた。
 もうそれにもう、まず本当に偶然ということの一致をですね、不思議に思うたと。話を聞かせて頂くと、そういう偶然の一致と言った様な働きが次々とあっておる。そして昨日ここにお参りをして見えた。
 電話をかけられたそのときも、実はもう一時間もお広前を私さがっておる時ですから、その電話が掛かってきとっても、私が受けられなかった。いくら電話が掛かって来ても、その頃は誰もお広前におらんから通じなかったかも知れない。けれども丁度私が、一時間ばっかり御用さして貰いよったおかげで、丁度タイミングよう、私が電話受けられる事が出来たと、いうようにです、素晴らしいタイミングの中に、ここまで来ることが出来た。 そういう様なことを思いますときにです、神様がおかげを下さろうとする前提というか、働きとしてです。こんなにも間違いがないじゃないですかということを示される。そういう働きを感じますですね。これはいつの場合でもそうです。ですから昨日はそういう難儀な問題をもって見えておられたけれども、帰るときに、これからは私でも助かることが出来るかもしれん、とこう...。
 前の日にとにかく親の元に帰るごとせろと言ったけれども、親の元にもかえられない事情があつた。昨日話を聞けば、けども第一に頂いたのは、親の元に帰れということだから帰れと、話を聞いて見るとお父さんも七十七になられて、胃癌で入院しておられて、もう永くない命だという。
 お母さんは片一方の眼が潰れて、片一方の眼がもう潰れかかっている。もうとにかくそれを聞かせて頂いて日吉さんが言うておられる。そういう難儀なことがあるのだから、まずいっちょうあんたのことは、もう親先生にお任せして、そのお父さんの癌のことやら、お母さんの眼が潰れござる方のそのことは一生懸命お願いせんの、ちいうちから言いよりました。
 まあいろいろ話を聞かせて頂いとるとに、とにかく第一親の元に帰ること。けど昨日はひとまず福岡に帰らせて頂いて、そんな訳なら本当に親孝行と思うて、帰るだけは明日帰るということに、昨日は言うて帰られましたけれども、それこそ一家ガス心中しょうかという思いだけ考えだけは取れて、少しかすかに光が見えて来たという感じです。
 それがそういう神様の、七年振りに日吉さんが言うておった神様を思い出して電話をかけたら留守じゃった。そういうときに日吉さんは全然、かかって来たことがわからんなりに、その方に用があって七年振りに電話かけて来たと、言った様な不思議にふれたときにです、これはやっぱり私でも神様が、助けて下さろうとする、助かるかも知れんということがわかって来た。
 私は、疑いの雲を払えよとこう仰るが、私共が本当に、神様をわからせてもらおう、頂こう、信ずる力を頂こうという様な意欲を持ちだすとです。神様が信じさせにゃおかんという、働きが周辺に起きて来るという事実です。
 そこから私は段々確信、神様を信じて疑わない信心が出来、また、そういう神様を信じきっての安心の生活ができてきて、そのために私は今日は、皆さんがそういうおかげを頂くために、まずはひとつ真の道にいればと仰るのですから、真の道に入ればまず不平不足をもういっちご言わんという修行をはじめなさい。
 そこから必ず神様が今いう信じさせにゃおかんという働きが、体験が生まれて来る。段々そこのところが繰り返されていきよるともう神様の御働きすべてが、御働きということがわかって来るとです、もう不平不足を言う段じゃない思う段じゃないというほどしの心まで開けて来るという事を今日は聞いて頂いた。
 いわゆる疑いの雲がすっきり晴れて、神様を信じて疑わない生活、それを私は安心の生活だと思います。
 ところが様々な問題に直面すると、本当にこの世に神様がござるじゃろうかと、思う様なこともありますけれども、そういう心が起きるときには、いよいよ教えを本気で行じてみるのです。
 沢山な御教えがある中にも特にです、一つ不平不足を言わんで済む私になるとです、私自身が助かるだけでなくて、あなたの周辺が助かるんです。不平不足を言わんで済む一人の人間が居るとね。だから今日は一つ本気でね、不平不足を言わんという信心を神様にお願いして帰られると良いです。
 段々不平不足を思わんで済むほどしのおかげも頂いて来られる頃には、いよいよ疑いの雲もそれこそ一掃して、本当に有り難い信心生活が出来る様になります。どうぞ。